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11月21日句会

双ギャラリーでの句会です。
ピエールさんの尊影を鑑賞しましょう。
 
今回は勉強を兼ねて「自分の好きな俳句」と
「俳句にしようと思ったけどできなかったもの」
「俳句ではないが俳句的だと感じたもの」を持ち寄ってもらいました。
 
俳句とは何か、というのはみな理論的に分かってから作ってる訳ではないです。
しかし、どうにもこれは俳句ではないな、というのは本能的にわかります。
俳句にならなかったもの、俳句に似ているもの、をいくつか並べると
それがもう少し明確にわかります。
五七五に納めて季語を入れたとしても川柳になってしまうものや、
下の句のない短歌になってしまうものもあります。不思議ですね。
 
 
その他、象徴、イメージをとらえる練習として会員同士が
お互いを色で例えるとどんなイメージか、動物だったら? お菓子だったら? 花なら?
といった連想をする練習をしてみました。
 
フロイトやユングの心理分析ではありませんが、冬・斧・書斎などが父親のイメージとか
柘榴・ほおずき・彼岸花などが妖しい女性のイメージなど
季語的な象徴は俳句の前景であり背景であり主役でもあります。
反面、梅に鶯など、あまりに使われすぎているイメージだと「月並み」になってしまいます。
 
自分の句を引くと
 
 
ポケットの小銭冷たし都市の冬
 
 
これは小銭・都市・冬がイメージの連続性があります。
財布ではなくポケットに小銭を入れ、そしてポケットに手を入れたまま買い物に行ける。
それは車を使わずに買い物ができる都市生活者であるということです。
同時にこの買い物が一家団欒の鍋の食材を買いに行くのではないだろう、というのは
小銭の冷たさを感じるような孤独や悲哀があるからで、これにより
多分独身中年男性がコンビニに煙草でも買いに行くんだろうなと分かります。
プロファイリングの恐ろしさですね。俳句には冷徹な視点もあります。
 
 
 
泣き止んだ母の手さする秋日和
野菜抱くブーケの如く散歩道
目的語無きさびしさよ飴渡す
 
お母さまの介護の句です。それが秋という哀しみの季節と重なっています。
目的語のない寂しさとは、理由のないさびしさ、あれがない、これがないではなく
ただただ寂しいと泣くお母さまに飴を渡すことしか出来なかったという句だそうです。
俳句という形でそれを残すことで気持ちの整理・浄化が出来たなら良いです。
 
 
ピエール
 
柿喰えど待てど暮らせど鐘鳴らず
柿を見て温度計見て秋はまだ
 
法隆寺の句と宵待草の歌の折衷のようなパロディ化と思いましたが
ある意味、鐘がならなかったという事によって、そうは簡単にドラマにはならないよ
という俳句の象徴の構造への苦笑いと「鳴らなかった鐘」もまた象徴であるという
複雑な構造の句でもあります。
 
 
 
雨音にめざめし朝の暗さかな
霧の朝小鳥のかすむ声ひびく
湯上りに微に匂う杉の香よ
 
これも面白いもので、聞いた瞬間全員が、ああ千木良にある別荘の朝だなと分かりました。
以前お邪魔した際は朝でもなく霧でもなかったですが、ちゃんと情景が目に浮かぶのが不思議です。
この場合、雨や霧は不安や悲しみではなく、気持ちを新たにする清冽なものとして感じ取れます。
 
 
 
老木に手のひらあわせ深呼吸
うばゆりの種子の実切られ花あわれ
 
 
うばゆりの種子は面白い形で、持って行ってしまう人がいたそうです。
最初、この句は「花あわれ」でなく「花さけぬ」でした。
その場合、犯人への憤りや非難が前に出ますが、これは冒頭で書いた「俳句になりにくいもの」です。
哀しみや怒りがあったとき、それに抗議すると俳句は「手段」になってしまいます。
怒りの抗議の手段として生み出されてしまった句は自分の創作物、わが子のようなものでありながら
つらい役目を担わされ、その句自体が愛され鑑賞されることがなくなってしまいます。
同じ事象でも「花あわれ」だと加害者を非難するのではなく被害者に寄り添う形となり俳句になります。
 
 
夢坊人
 
塀越えて盗ってこその柿の味
塗れ落葉踏みしめコートの襟立てる
静けさやコタツの亀が雪を見る
 
 
ピエールさんと同じく柿の句です。さらにコートの印象で、ブログ掲載時名前を逆にしてしまいました。
大変失礼しました。田舎すぎると柿はその辺に無限に生っているので、塀で守られているのは下町の情緒ですね。
三句目の亀は動物ではなくコタツから顔だけ出した自分のことでしょう。素直で静かな句です。
 
 
次回は初の試みで、俳句に絵を添えてみようというワークショップを予定しています。
さてさてどうなることやら。